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*ある消しゴムの恋*

 暖かい陽光と早朝の寒気が混じりあう時刻。エリは三年生の教室が置かれている東校舎の二階へと続く階段をゆっくりと上っていた。グラウンドを隔てて向かいにある大通りからの喧騒を除けば、まだ誰の声も聞こえず誰の手も触れられていない内壁は、とても白く新鮮に見えた。それが壁面の一部をくりぬいて差し込んで来る強い射光によるものに他ならないことは明白だった。エリはすーっと勢いよく鼻から空気を吸い込んだ。混じり気のない爽快な空気が鼻の奥をすり抜け、代わりに全身に溜め込まれていた古い空気が一気に吐き出された。その直後、エリはいつも軽い危惧を抱く。この神聖な空気を汚してしまったのではないか、と。そうしてすぐにもう一度嗅ぐも、先程と何の変わりもないことが判明すると、ほっと胸を撫で下ろすのだった。清らかなものはいつまでも清らかであってほしい、それがエリのポリシーだった。

 目指す教室までの階段を上りきると、エリはどっと足がすくむ思いがした。というのも、最近になって先客がいるのだ。今までならこの新鮮さが教室まで持続し、もうしばらくはひたっていられたのだが――ほら、やっぱり今日も彼がいる。入り口に程近い席に座って読書にふけっている木下新吾。廊下からすでにちらほら見えている。私はいつものように迷うことなく入り口を通過し、気付かれぬようそっと後ろの引き戸から忍び込んだ。木下新吾が異変を感じ振り返ることもなければ、もちろん挨拶を交わすこともない。私は空気のように窓際の後ろから二番目の席に着く。そしてすぐに窓を開け放ち、澄んだ外気を室内に送り込むのだ。しかし、これも今では見せ掛けだけで、実質的には二人だけの静寂に耐え切れずとにかく無作為な音を取り入れている、というほうが正しい。

 それにしても、どうしてこんなにも気まずいのだろう、とエリは予習をするふりをして考えていた。高校三年ともなれば、このような状況に何度か出くわしたこともある。そのどれをとっても、今すぐにこの空間から抜け出したいと思ったことはなかった。木下新吾が嫌味な奴? いや、とんでもない。後輩からも慕われ彼の周囲では笑いが絶えないほど明るく、好感すら持っている。では、なぜ……握っていたペンシルを置いても、その答えは見つからなかった。エリがこれ程までに真剣に熟考するのには訳がある。出来れば、この奇妙な関係から脱したいと心の底から思っているのだ。こそこそ泥棒のように忍び込んだりせず、堂々と正規の入り口から笑って「おはよう」と言いたい。願わくば、それを発端にして何気ない会話でも続いていけば、なんて素敵だろうと思う。そんな遠い妄想に思いを馳せながら、エリはちらりと新吾を見た。すると、彼の腕で押され机から消しゴムがころげ落ちた。どうやら新吾は本に夢中で気付いてないようだった。消しゴムは何度か楕円を描くと、ぱたりと彼の二席後ろの机の足に当たり止った。エリは逡巡していた、このまま見なかったふりを押し通そうか、それとも拾って彼の元へ届けに行こうか。しかし、私に見向きもしない木下新吾に近寄っていくという行為は自爆を意味するのではないだろうか。もし、露骨に不機嫌な顔をされでもしたらどうしよう。そもそも、私自身上手く笑えるだろうか。しかし、裏を返せば願ってもないチャンス到来。今を逃せば、きっと永遠に彼が私を見つめることも、この張り詰めた雰囲気が和らぐこともない。そう思った途端、私は結論を出す前にすでに立ち上がっていた。ぎーっと椅子を引いた音が空間に響き渡り、エリの身体は一瞬縮こまった。なるたけ物音を立てないように十分に配慮して、消しゴムの方へと素早く移動した。遠目からは分からなかったが、使い古されたボロボロの消しゴムだった。意外と物持ちいいんだな、と感心していると廊下側からスリッパを引きずるような足音が聞こえ、私は慌てて自分の席へと戻った。

「お前、また朝から本読んでんのかよ。しまいには、脳みそが活字だらけになるぞ」

 擦り切れた鞄を小さく折り畳み、手に持って登校して来た男子生徒は木下新吾を見つけるやいなや、彼の前席に腰を下ろして勝手に話を始めた。最新号の雑誌やマンガ本、昨夜の野球のナイター中継、今朝の朝食に至るまで次から次にと朝のキャスター並みに話題が尽きない。新吾はというと、そのマシンガンのような奴と手中にある本を交互に見ては、時折相槌を打ったりして付き合っていた。エリは掌に収まっている消しゴムを伏目がちに見た。どうしよう、早く返さないと、思えば思うほど焦りが募り手足がガクガク動く。話しかけるのに新吾一人だけでも心臓が裏返ってしまいそうなほど緊張しているというのに、もう一人男子が加わるとなるとそれは計り知れない。ましてや、団地の主婦のように何にでも首を突っ込んで来そうな奴だ。どんな噂を立てられるか、考えただけでも堪ったもんじゃない。だが、一時限目は数学で否応にも、消しゴムは使う。このまま一人になるのを待っていても仕方が無いと頭ではわかっているのに、手も足も全く出てはくれなかった。残るは、神頼みしかない。ほんの一分でもいい、彼が一人になる時間が巡って来てくれることを。だが結局、朝のHRギリギリまで奴が腰を浮かせることはなかった。

 HRが始まると、新吾はエンジンがかかったように頭やら手や足を揺らして動き始めた。そう、彼は消しゴムを探しているのだ。エリは直視していられずに手をかざしてその光景を遮った。悔いていた。あのまま消しゴムを拾い上げたりしなければ、今頃他の誰かが見つけその周辺の人たちに声を掛けていたかもしれない。そうすれば、すぐに新吾の手元に戻ったはずだ。私が余計な期待を掛けなければ、エリは過去にさかのぼることが出来るタイムマシーンが今横に据えてあったら皆勤賞が消滅しようとも、迷わず飛び乗ったはずだ。たかが消しゴム、されど消しゴム。私は、なんてバカなんだ。 

 担任が早々に教室を後にすると、皆もぞろぞろと荷物を持って出て行っている。訳も分からず私も慌てて皆に倣い、入り口へと駆け寄った。

「エリ! どこ行くの? 男子と一緒に着替えるつもり?」

 横の席の由梨が私に向かって叫んだ。私はまだ、何も把握していなかった。その場に居合わせたはずのHRの記憶がすっぽりと穴を掘ったように無くなっているのだ。

「数学の先生の都合により、今から急遽体育になったのよ。先生の話、聞いてなかったの?」

 ラッキーだと思った。私はとりあえず由梨に舌を出しおどけてみせ、なんとかその場を遣り過ごした。そして素早く無人となった新吾の席へと向かい、冷や汗が張り付いた消しゴムを机の上に置くと、私は一つ大きく息を吸い込んだ。……よかった。思いも寄らぬ安堵感で、エリは溶けるようにその場にへたり込んでしまった。

「消しゴム、ありがとう」

 昼休み。その声に引き寄せられるように見上げると、木下新吾がいた。私は突然の実現に呆然として、なかなか声が出なかった。

「……どうして、わかったの……?」

 新吾は苦笑いをしながら、言いにくそうに白状した。

「……わざと、なんだ」

 えっ、と発したと同時に私の緊張もほぐれていった。ほんの一瞬のことではあるが、私はいろいろなことを思い巡らせた。そして気が付くと、自然に顔がにやついていた。

「なに、笑ってんの。気味悪いよ」

 そう言いながらも、新吾の顔はどこか楽しそうに見えた。私は、わかっていながらもわざと聞いてみた。

「どうして?」

 問い掛ける声も、うわずっていた。返事は決まっている。朝の違和感ある雰囲気も、それでもお互い遅らせることなく早起きし続ける理由も、すべてに合点が行く。ずっと、ひた隠しにして来た気持ちなのだ、自覚がないほど抑えきれない想いなのだ、きっと。私は一つ唾を呑み込むと、震えながら新吾の言葉を待った。

「実は、取り持って欲しいんだよね、坂上さん(由梨の苗字)との仲を」

 頬杖をついていたひじが机から滑り落ちた。そして私は平然を取り繕うかのように虚ろな目をしながら「だよね……」と彼の言葉に付け加えていた。先程から延々と熱弁する彼の由梨に対する想いを聞きながら、私は目を細めたり擦ったりした。どこかにきっとあるはず、と目を凝らして探しているのだ、過去へと誘ってくれるタイムマシーンを。

                          END

 

 

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