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2006年6月19日 (月)

長くかかったもの 《1》

 一緒にいられればそれだけでいい、そう思って雪乃は陽介と付き合って来たつもりだった。しかし、ここへ来て少しずつだがその信念(しんねん)も揺(ゆ)らぎ始めている。雪乃は三十二歳、陽介は二十五歳。別れるなら、今しかないだろう。

 陽ちゃんと出会ったのは、アジサイの花が季節を告げる梅雨真っ只中の暑い日だった。母に手を引かれてお隣さんに向かうと、格子越し(こうしごし)に産着(うぶぎ)に包まれてすやすやと眠る赤子がいた。この子が陽介君よ。楓(かえで)のような小さな掌(てのひら)に私がそっと小指をのせると、たった一つの命綱を掴んだかのようにぎゅっと握り返してくれた。その行為は幼心(おさなごころ)ながら、私がいないとこの子は生きていけないんじゃないかと、錯覚(さっかく)してしまったくらいだ。私の家は、私が産まれてすぐに両親が離婚をして他に兄弟もいなかったので、本当の弟のように私は陽ちゃんを可愛がった。陽ちゃんの両親も共働きで一人っ子だったため、私の意向(いこう)と重なってお守り(おもり)をしたり保育園のお迎えに行った後もウチで預かったりと、兄弟のように扱ってくれた。陽ちゃんもすごくなついてくれたし、二人でいると何をしてても楽しかった。しかしそれも陽ちゃんが小学校二年生に上がるくらいまでで、それ以降はサッカーの練習があるからと言って陽ちゃんのほうから寄り付かなくなっていった。私も私で高校受験を目前(もくぜん)に控(ひか)えていたのでウチにいることのほうが珍しく、こうして私たちは自然と遠ざかっていった。たまに、風の噂で名前を耳にしたり、道端(みちばた)で会うと頭を下げるくらいはあったが確実に距離は延(の)びていった。大学進学と同時に私が一人暮らしを始めると、いよいよ記憶の片隅(かたすみ)に追いやられ、思い出すこともなくなっていった。おそらく、陽ちゃんもそうだったはずだ、母から中学に入って彼女が出来たという噂を聞いたことがある。兄弟のように育ちはしたが、ご近所さんという自然の流れに私たちは戻っていった。それは当然のことで、寧ろ(むしろ)そうしなければならなかったのだ。と、当時は私も若かったので、そんなふうに割り切って考えることが出来ていた。それから十年余り、私はいろいろな恋をしたが、どれも結婚までには至(いた)らなかった。世の中には星の数ほど男がいるというのに、その中で私はずっと陽ちゃんだけを探し続けていた。そのことに就職してからやっと気付いたのだ。しかし同時に、見つかるわけもない、という諦念(ていねん)もある。だって、私が自ら(みずから)の手で陽ちゃんを追放(ついほう)したのだから。

 私はあの日、罪を犯した――土曜日の昼下がり、小学校二年の陽ちゃんといつものようにウチで昼食を摂(と)っていた。そんな時、梅雨の明けた直後のカラカラとした生ぬるい空気により一粒の汗が陽ちゃんの額(ひたい)を伝った。私はそれを指で拭って(ぬぐって)あげると、次の瞬間、何を思ったのか唇を重ね合わせていた。陽ちゃんの鋭い(するどい)視線で私ははっとし、ごめん……と呟いた(つぶやいた)がすでに陽ちゃんはランドセルを持って飛び出していた。なぜ、自分がそんなことをしたのか今でもよくわからない。欲求不満だったんじゃないの、と片付けられたらそこまでだが、私の暗い奥底にはもっと薄汚くて野蛮(やばん)な憶測(おくそく)が潜(ひそ)んでいる。それは、赤ん坊の頃の陽ちゃんに出会った時から潜在的(せんざいてき)に私の心に組み込まれていて、その思いを保持(ほじ)しながら私は陽ちゃんのおしめを替え、共にお風呂に入り一枚のタオルケットに巻かれたというおぞましいものだ。私は自分を憎んだ。そして、その不潔な思いを洗い流すように一夜限りの男と戯(たわむ)れた。そっちの方が明らかに清らかなことのように思えていたのだ。

 だがある夜、母から一本の電話がかかって来る。陽ちゃんがバイクの事故に遭い、意識不明だという知らせだ。すぐにでも詳しい容態(ようだい)を詰問(きつもん)したかったが、私は事も無げ(こともなげ)に仕事が忙しいからと適当な理由をつけて切った。そして、後ろ髪を引かれながらも断ち切る(たちきる)ように夜の歓楽街(かんらくがい)へと繰り出し(くりだし)ていった。選(え)りすぐりしなければ、男なんてすぐに見つかる。そのままホテルへ直行し、身を任せれば何も感じないくらいすべてを遠くへやれると思っていた。しかし、あんなに近くにいたのに顔も覚えていない男が金を置いていなくなると、途端(とたん)に何年も会っていない陽ちゃんの顔がありありと瞼(まぶた)の裏に浮かんだ。それでもまだ、私は涙を流してぼやかそうと抵抗するのだった。陽ちゃんに、もう二度と会えないかもしれない、そんな過酷な言葉が脳裏(のうり)を過(よ)ぎる。せめて、謝るだけでも許されるのなら……? いや、もうそんなことはどうだっていい。罰なら後で、思う存分(おもうぞんぶん)受けてやろう。今はただ、陽ちゃんに会いたい。

 私は取るものも取り合えずホテルを出ると、たった一つの明かりを求めて夜の世界へと飛び込んで行った。

                        《2》につづく

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